史跡探訪③~「一筆啓上」本多重次墳墓(取手市台宿)

久々のブログです。皆様お変わりございませんでしょうか?

新型コロナの影響で遠ざかっていたブログですが、徐々に再開してゆきましょう。

今回ご紹介する史跡は、取手市にある結構有名な戦国武将のお墓です。

いきなり「お墓」の話で申し訳ありません(^_^;)

ちなみに訪れたのは緊急事態宣言が発令される前です。

 

取手市内の住宅地の中に突然現れるのが『本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)墳墓』です。

本多と聞いて、すぐに徳川の家臣と分かる方は歴史通です。重次は徳川家康の側近のひとりで、その気性の荒さから『鬼作左(おにさくざ)』の通称で知られています。

なぜこんな所に家康側近の有名武将のお墓がぽつんとあるのでしょうか?

 

古い話ですが、1983年の大河ドラマ『徳川家康』では長門裕之さんが、いかにも頑固で主君思いの三河武士本多重次を好演しました。

このお方、主君思いの度が過ぎて、「殿(家康)の命令にしか従わぬ」と、時の天下人豊臣秀吉の命令さえも無視してしまうような頑固者でした。

とうとう秀吉の勘気を被ってしまい、主君家康から蟄居(謹慎)を命じられます。その蟄居先が現在の取手だったのです。

結局、名誉回復の前にこの地で生涯を閉じる事になります。

 

又、重次は今も語られる「日本一短い手紙」の筆者としても有名です。

『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』

これは重次が、かの有名な「長篠の戦い」の陣中から妻宛てに出した手紙と言われています。内容は「火の用心と、幼い息子(仙千代)の健康、武士の宝である馬の世話」3つの注意事項を簡潔に記したものです。

重次は蟄居先で亡くなりましたが、嫡子仙千代(本多成重)は後に武功をたてて、越前国丸岡城の大名になりました。

尚、丸岡城のある福井県丸岡町にも重次のお墓があるそうです。

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